哲学者のクレッグ・ウォームケ(Craig Warmke)氏によれば、ビットコイン(BTC)はバットマンだ。
彼の主張を少し勝手に解釈させてもらうと、の話だが。
ノーザン・イリノイ大学の哲学助教授で、暗号資産志向のリサーチコレクティブ「Resistance Money」のメンバーでもあるウォームケ氏は論文の中で、ビットコインはネットワーク参加者全員が書く集団的ストーリーだと主張している。
私たちは皆、「ビットコインとは何か」を際限なく議論しているが、マキシマリストでさえも、一致した答えを見出せてはいないようだ。しかし、ビットコインは集団的フィクションであるというウォームケ氏の考えは、様々な説明の中でもとりわけ奇抜なものだ。
ビットコインは「ストーリーのようなものだ」と言っている訳ではない点に注意 が必要だ。ストーリーである、と言っているのだ。しかも実世界で価値があるストーリーだと。これから見ていく通り、理解するのはそんなに難しくはない。
ビットコインはストーリーであり、その主人公だ。ストーリーにありがちな通り、かなり退屈だ。新しいビットコインが発行され、ウォレットからウォレットへと永遠に動いていくストーリーだ。話の筋は、ビットコインがビットコインネットワークの中を動き回るというもの。
ビットコインネットワークは、コードを使って、外部の世界に対応するもののない何かを記述する。しかしそれには、価値があるのだ。それがフィクションだ。ウォームケ氏が論文の終盤で述べる通り、「ビットコインブロックチェーン内の、ビットコインの動きを記述するコードのかたまりが、それ自体その動きではないとしたら、その動き、つまり取引はどこで発生するのか?見方によっては、答えはどこでもない、あるいはあらゆるところだ。(中略)ビットコインはフィクションの産物だ」
彼の考えでは、マイナーは出版社でノードは査読者だ。ウォレットオーナーは、文の主題となるビットコインを保有する限り、書く権利を持つ。しかしその文は、特定のウォレットにどれくらいのビットコインが移動するかについてしか述べることはできない。
それでも、フィクション?
ウォームケ氏の論文について、バットマンの手を借りて私の解釈を説明しよう。なぜビットコインがバットマンのようなのかを理解できるだろう。バットマンも、ストーリーの中の架空の人物だ。非常に価値の高いストーリーでもある。1989年、映画『バットマン』は世界中でポップカルチャーのセンセーションを巻き起こし、興行収入は4億ドルを超えた。ダークナイト三部作は、興行収入だけでワーナー・ブラザーズに25億ドルの収益をもたらした。これは映画による収入だけの話だ。
バットマンは、本、おもちゃ、その他のメディアを通じて、1939年以来オーナーに利益をもたらし続けている。これに敵うか、サトシ・ナカモト!
コミックブックのファンではない人は気づかないかもしれないが、バットマンの価値が長続きした理由の1つは、彼のストーリーが発展し続けたからなのだ。(ビットコインのストーリーと同じように)
バットマンのストーリーは毎月、DCコミックスのページの中で続いていく。数々のタイトルで、信じられないほど登場し、毎週少しずつ新しいストーリーが展開しているのだ。
ボブ・ケインとビル・フィンガーが、バットマンを生み出したとして称えられているが、数え切れないほどのライター、アーティスト、エディターたちが巨大なバットマン神話を拡大することで、バットマンの伝説は成長していった。
バットマンのストーリーのそれぞれが、実質的には少し「リアルな」ストーリーになっていく。事実、DCのコミックブックの中で起きるあらゆることは、バットマンの住む世界の歴史の一部であり、その歴史はしばしば、互いに混じり合う。
DCコミックスからスーパーヒーロー物が発表されると、それが土台となり、他のライターはそのストーリーが終わったところから、新しいストーリーを再び始めることができる。まったく異なるタイトルのコミックの中でさえも。コミック業界でこれは「コンティニュイティ(継続性)」と呼ばれる。「架空の世界の歴史」ということだ。
つまり、ライターやアーティストはコミックブックの世界の中で集合的ストーリーを書く権利のようなものを持つが、ビットコインの場合と同じように、制限もある。
ライターやアーティストは、ウォームケ氏の考えにおけるウォレットに相当し、バットマン台帳に文を追加する。
しかし、エディターはビットコインノードのようなものだ。彼らの仕事の1つは、バットマンの歴史におけるコンティニュイティの間違いを防ぎ(例えば、新しいストーリーが古いものと矛盾しないようにする)、バットマンにまつわるコンセンサスが維持されるようにすることだ。
バットマンのストーリーは果てしないほどの数あるが、それは無制限という訳ではない。
ブルース・ウェインが犯罪と戦うのではなく、花屋を開くストーリーを持ち込むライターがいれば、エディターがそのストーリーを却下することが見込まれる。
そのようなストーリーは、バットマンのキャラクターに関するコンセンサスを破壊することができるだろう。キャラクターが驚きをもたらすストーリーは好まれるが、それでもしっくりする感じで驚かせなければならない。そこがコンセンサスだ。『バットマン:マントを着た菊のプロ』では、読み手が悪い意味で驚かされる。
ウォームケ氏の枠組みをさらに進めると、バットマンの出版元であるDCコミックスは明らかに、(ずっと中央集権化されているが)マイニングネットワークのようなものだ。配給ネットワークである、ダイヤモンド・コミック・ディストリビューターズ(Diamond Comics Distributors)は、バットマンにとってのインターネットだ。
どちらも非常に価値がある
このネットワークは、成長を続けるストーリー、バットマンなるものを前に進め続ける。ビットコイン台帳よりは、ずっと面白いストーリーだ。
そして様々な理由から、これらのストーリーには実世界で価値がある。しかし、それでもストーリーに変わりはない。
結局のところは、何かが存在するとはどういう意味かということをめぐる、存在論的議論なのだ。ウォームケ氏は、ビットコインに関する「在る」問題をめぐるコンセンサスを推進するかもしれない、示唆に富んだモデルを構築したのだ。
次に「ビットコインは何?」と聞かれたら、次のように答えることができる。「すべてのビットコイン保有者が集団的に書くストーリーだ。より多くの人が知り、書くことに協力し、ストーリーが長くなるほどに、価値が高まるのだ」
間違いなく、次のように返されるだろう。「どういう意味?」
それに対してこれまで私たちは、次のようなことを言いがちだった。「お金も集団的フィクションだよ」それは大抵、大学生レベルの陳腐な決まり文句として受け取られる。常に空虚に響くのだ。
しかしこれからは、次のように答えられる。「バットマンと同じことさ」これで、関心を引くことができるだろう。
|翻訳・編集:山口晶子、佐藤茂
|画像:Shutterstock
|原文:Bitcoin Is Batman