ツイッター上における暗号資産(仮想通貨)関連のケンカはもっぱら、怒りの叫びが飛び交うばかりで、価値ある議論はほとんど生まれない。同族意識のパワーと、人間という生き物が抱えるさまざまな心の病を露呈するばかりだ。
しかし、時には、はるかに深く意義のある氷山の一角ということもある。そんな実のある議論が、先週展開された。
暗号資産アナリストでベンチャー投資家(さらにCoinDeskのコラムニスト)であるニック・カーター(Nic Carter)氏が、いわゆるビットコインマキシマリスト(ビットコインが唯一最高の暗号資産と考える至上主義者)と衝突したのだ。
カーター氏はこの議論が、まともなイデオロギーとしてのビットコインマキシマリズムの終わりを意味するかもしれないと考えており、私もそうかもしれないと考えている。
何よりも、かつては暗号資産界で最もパワフルだった思想体系を、ますます気の抜けた反知性主義と、浅はかで表面的なパフォーマンスが蝕んでいる現実を露呈しているのだ。
反知性主義:知的権威やエリート主義に懐疑的な立場をとる思想。知性そのものへの反感ではなく、知的な特権階級に対する反感に根差している。
議論の発端は、カーター氏と彼が立ち上げたファンド、キャッスル・アイランド・ベンチャーズ(Castle Island Ventures)による、ダイナミック(Dynamic)というスタートアップへの株式投資の発表だ。
ダイナミックは、Web3テクノロジーの最も興味深い使い方の1つである、分散型アイデンティティ機能を伴うウォレットベースのプラットフォームの開発を手がけている。
問題は、ダイナミックがマルチチェーンな点だった。自称ビットコインマキシマリストたちにとって、これは異端に値する。この異端という言葉は、ほとんど文字通り受け取ってもらっていいだろう。なぜならビットコインマキシマリストたちは、宗教の特徴を多く有しているのだから。
ビットコインマキシマリストたちは、カーター氏も裏切り者の異端者の1人と感じたのだが、実際にはそうではないようだ。「最初から、私はブロックチェーンに関して多元論者であった」と、自らを批判する人たちに向けた記事の中でカーター氏は語った。
ビットコインマキシマリズムとは?
ビットコインマキシマリズムは多くの顔を持つ。表面的には、カーター氏が5日、暗号資産関連のポッドキャスト「Bankless」で説明した通り、ビットコイン(BTC)以外のいかなる暗号資産を保有すること、触ること、どんな形であれサポートすることは、単に犯罪なだけではなく、強硬な宗教的な意味での罪だと考えることだ。トークンの名を口にするだけでも、「サポート」に当たる。
カーター氏は、自身を攻撃したマキシマリストの多くは、2017年の「ブロックサイズ戦争」でビットコイン支持者が見せた痛烈な言い回しと頑固さを盲目的に真似ているカルト的な新参者たちだと、説得力のある主張を展開した。ブロックサイズ戦争の際には、ビットコインに変更を加えることが、長期的安定性に脅威となるかもしれないという切迫した危機感が存在していた。
最近の自称マキシマリストたちによって骨抜きにされてしまっているが、ビットコインマキシマリズムの背後には、確かな考えが存在しており、アルトコインに対する全面的な敵対心にもしっかりとした理由がある。
最も根本的なレベルでは、BTCが唯一の暗号資産であるべきというのが、マキシマリズム。なぜなら、真に分散化されている唯一の暗号資産だからだ。確かに、大半のアルトコインが実験に失敗したり、まったくの詐欺であり、無能な起業家や腐敗した創業者たちを豊かにし、暗号資産業界全体から資金や情熱を枯渇させてしまったことは、客観的事実である。
ビットコインプラットフォームがゆくゆくは、私たちが現在イーサリアムなどのスマートコントラクトプラットフォームで享受している分散型の便利なあらゆるサービスを運営するようになると主張するマキシマリストもいる。他のチェーンからイノベーションを吸収していくからだ。(ちなみに、通貨を運営する以外にブロックチェーンを使うことに懐疑的な人たちもいる)
さらに興奮してくると、BTCは最終的に世界の準備通貨となり、忌まわしく脆弱な法定通貨に取って代わるというのだ。
カーター氏の議論を私が興味深いと感じるのは、私も彼と同じように、ビットコインのことが大好きで、多くのマキシマリストの考えの多くは、方向性としては正しいと考えているからだ。
しかし、これまたカーター氏と同じように、過激で融通の利かないマキシマリストの立場は、直面することが避けられない実世界の複雑性について考え抜くのを妨げてしまうとも考えている。
マキシマリストが正しいところ
例えば、トルコの現在のインフレ率54%のような、超インフレ的な状況から逃れられない人にとって、BTCが安全な避難先資産として機能するという、説得力のある経済学的な根拠と証拠がある。
このような安全な避難先としての特徴は確立されたもので、実世界で客観的に観察できるものだ。BTCは時とともに、世界的に法定通貨を律するような存在となるだろう。しかしそれは、ビットコインがすべての法定通貨に取って代わるのが当然と信じることとは違う。
さらに根本的に、マキシマリストの最も説得力のある論点は、BTCが真に最も分散化されたデジタル資産だ、というもの。それは大まかに言って正しく、ビットコインを魅力的にしている特徴でもある。グローバルなコンピューターネットワークから誕生した自然の力のようなものなのだ。
だからこそ、米証券取引委員会(SEC)のゲンスラー委員長さえ、ビットコインだけはコモディティと考えても良いと思っているのだ。プロダクトではなく、プロトコルなのである。
私は、ビットコインは菌糸体のようなものだと考えている。キノコが育つ、目に見えない地下ネットワークである。菌糸体は目に見えないが執拗に広がっていき、自らが繁栄できるチャンスを狙っている。ビットコインもそれに似ている。ユニバーサルで止めることはできないが、状況や用途によって、合うものも合わないものもあるのだ。
マキシマリズムが、ビットコインの実際の有用性において重要な細部をしっかり考えることへの拒絶になってしまったのなら、知的に行き詰まったということになる。
カーター氏が指摘する通り、賢いビットコイナーたちの多くが、そのことに気づき、離れていった。ウディ・ウェルトハイマー(Udi Wertheimer)氏やエリック・ウォール(Eric Wall)氏、匿名のアナリストHasuもそれに当たる。彼らは皆、その好奇心と柔軟さによってマキシマリストの怒りを買うまでは、緩やかに「ビットコイナー」の一員であった。
いまや、誰が残っているのだろうか?トム・ブレイディー(Tom Brady)氏と、サイファディーン・アモウズ(Saifedean Ammous)氏か?
呪術宗教的経済学
カーター氏はまた、最近のマキシマリストのもう1つの奇妙な考え方も取り上げている。BTCのドル建て価格が、自信を持って予測可能、という考えだ。
一部のマキシマリストたちが提唱する「ストック・トゥ・フロー」モデルを、私はこれまでしっかり検証したことはなかったのだが、多くの人がこのモデルと、BTCはいつか10万ドルを突破するという予測を本当に信じているようなのだ。しかし、いつまでにという期限の予測は、頻繁に変更される。(ちなみに、自信満々で提示される予測の期日を変えるのは、カルトの常套手段である)
ストック・トゥ・フローモデル:ビットコインの総供給量(ストック)とマイニングによって生まれる新規供給量(フロー)から価格を予測するモデル。
ストック・トゥ・フローが、マキシマリストの不気味なほどの単純さを露呈する様は見事だ。限りなく対象期間を拡大することによって、妥当性の検証が不可能なテクニカル分析なのだ。BTC価格が普及度にもとづくのだとしたら、そのプロセスが直線的、あるいは予測可能なものと想定するのはバカげている。
テクノロジーや通貨は、特にグローバルな規模においては、そのようには動かない。不規則さや状況の変化があるし、そして何よりも、熱狂がバブルのように高まることもあれば、その後落胆の時期もやってくる。
カーター氏は、マキシマリストたちが彼を攻撃したのは、カーター氏もマキシマリストの一員だと誤解していたからだけではなく、現在の暴落によって、自分達が信じていた、完全かつ直線的なBTCの優勢という、単純でエセ宗教的な考えが間違っていたことが証明されたからでもある、と考えている。
対照的に、本当に熟練した暗号資産関係者なら誰でも、暴落は遅かれ早かれやってくることがわかっていた。カーター氏が「千年王国的終末論」の一形態と完璧に表現するナラティブに傾倒するのではなく、市場の細部に目を凝らしているからだ。
ビットコインマキシマリストは実質的に、キリスト福音主義者たちと同じように、古い(法定通貨の)世界の終わりは避けられず、次なる(暗号資産の)世界におけるすべての恩恵は、純粋な信念を持った人たちに与えられると考えているのだ。
しかし、純粋さは、少なくともこの場合、実世界における勝利の敵だ。そのことは、ストック・トゥ・フローやスーパーサイクル(長期的な強気相場)理論を信じ、そのお粗末な分析によって、熱狂的なバブルのピーク時に買ってしまったために、今では多額の損失を抱えているマキシマリストたちが、ある意味で体現してくれている。
マキシマリズムはビットコインへの攻撃である
より長期的に見ると、マキシマリストはますます自らの収益に対する脅威となっているだけでなく、ビットコインそのものにとっても脅威となっている。
ビットコインの比較的保守的なデザインとアップグレードのプロセスは、間違いなくその長期的な魅力の一部である一方、ビットコインはすでに完璧であるという考えへのマキシマリストたちの傾倒ぶりは、過剰な単純化へつながる極端な思考の典型だからだ。
それをわかりやすく示す例が、ビットコインの長期的セキュリティの問題だろう。新しく発行されたBTCという形でのマイナーに対するマイニング報酬は、ゆくゆくは数が尽きることになっているが、手数料による報酬だけで、遠い未来にチェーンを安全に保つのに十分なマイニングのインセンティブを提供できるのか、ということについて大きな疑問が生じている。
この脅威がどれほど深刻なものなのか、はっきりしないのだが、議論する必要があるのは確かだ。そしてその議論においては、ビットコインがかなり劇的な形で変化する必要があるかもしれないという、深刻な可能性も語る必要がある。
ビットコインは優れているが、完璧ではない。必要な時に変化することを頑なに拒んでいては、愛の力で、お気に入りのデジタルトークンを締め殺すことになってしまうかもしれない。
|翻訳・編集:山口晶子、佐藤茂
|画像:ニック・カーター氏(CoinDesk)
|原文:Nic Carter vs. The Bitcoin Maximalists