私にとってはフェイスブック(Facebook)の仮想通貨プロジェクト、リブラ(Libra)を取り扱った3番目となった先週のコラムで、リブラの金融包摂の目標が直面する中核的なジレンマについて述べた。プライバシー重視の立場とKYC(顧客確認)重視の立場を両立させるのは不可能というジレンマだ。
この記事では、リブラと物議を醸すその創設社フェイスブックの話題から離れることをお約束する。しかし、そのジレンマについては深く掘り下げていきたい。リブラ固有の問題ではないからだ。
「顧客確認(know-your-customer)」の規則が仮想通貨の世界に着実に浸透していく中、貧困層への金融アクセスを拡大しようとする仮想通貨スタートアップのすべてが、力になりたいと思う人たちの身元確認をし、追跡するための要件によって身動きが取れなくなっている。
この矛盾は、マネー・ローンダリング及びテロ資金供与対策の規則(AML-CFT)に含まれる厳しい方針に起因するもので、それらの方針は世界中で、2001年の9/11同時多発テロ、そして2008年の世界金融危機の後に厳格になった。
実質的にすべての銀行は米ドルにアクセスする必要があるため、あらゆる場所におけるKYCの規則は、米国銀行秘密法(U.S. Bank Secrecy Act)と金融犯罪取締執行ネットワーク(FinCEN)のガイドラインで示されたモデルに従う傾向がある。
国際化に向けたさらなる圧力は、金融犯罪対策における政府間会合の金融活動作業部会(FATF=Financial Action Task Force)から来るもので、FATFは各国が互いに遵守をするよう圧力をかけ合うような規制基準を設定する。
執行機関に高額な罰金を課す権限を与えるこういった規則のネットワークは、銀行員の頭上に常に迫る危機をふりかざし、リスク回避型の姿勢へと駆り立てる。銀行のコンプライアンス担当行員が、(メキシコの麻薬に関連したマネーロンダリングを可能にしたことで19億ドルの罰金を課された)HSBCや、(イランで同様の過失を犯し11億ドルの罰金を課された)スタンダードチャータード銀行(Standard Chartered)の名前をあげれば、その上司は顧客の身元確認とプロファイリングの厳格なアプローチの必要性をすぐさま納得するだろう。
2兆ドルのマネーロンダリング
しかし、これらの方策が効果的なのかははっきりとしていない。国連薬物犯罪事務所(UNODC)の推計によれば、グローバルGDPの2〜5%、つまり8000億〜2兆ドル(約87兆〜217兆億円)がいまだに毎年マネーロンダリングされている。厳格なルールがなければ、この数字はさらに大きなものになっているだろうか?おそらくそうであろう。しかし、厳格なルールの功績を測るために、それらが仮に存在しなかった場合の結果を想定する術を我々は持っていない。
犯罪者たちはそれでも、資金を動かし、制裁を回避するためのメカニズムを多く保持している。確かに、ビットコインを使う者もいる。だからこそFATFは2019年、彼らが「仮想資産サービスプロバイダー」と呼ぶところの業者向けにより厳格な規則を導入したのだが、仮想通貨が犯罪において果たす役割は、法定通貨によるものよりもはるかに小さい。そして2015年にパナマ文書で明らかになった通り、あらゆる闇の組織が、腐敗した政治家と彼らに資金援助する者たちの身元を隠し、資金の動きを曖昧にする手助けをしている。
我々に分かっていることは、これらの規則は金融包摂を妨げるということだ。
例えばカリブ諸国の政府は、厳格なコンプライアンスが彼らの国への投資の流れを止めたとして、自国経済がますます「ディリスキング(リスク回避)」に苦しんでいると不満を訴えている。
国家主導の身分証明書が存在せず、または簡単に偽造ができ、さらに貧しい国にとっては、影響はさらに深刻だ。FATFによって「ハイリスク管轄域」と分類された国の取引先銀行に対して外国の銀行が適用する厳格な審査によって、それらの国々の企業や個人が地元の銀行サービスを受けるためのハードルは非常に高くなっている。世界中で20億人もの人が「非銀行利用者層」とされている大きな理由である。
このことはもちろん貧困に対してマイナスの影響を与え、そして貧困が犯罪やテロリズムを助長するといった、まさにAML-CFTが戦おうとしている問題を大きくしている。
ソマリアの例を考えてみよう。世界の多くの大手銀行は、この国の企業や機関を頻繁にブラックリストに載せている。外国に暮らすソマリア人にとって、仕送りに頼る家族に向けて祖国に送金をすることは、困難かつコストがかかる。このことが貧困を永続化させ、非公式の支払いシステムの利用へと人々を追いやっている。同国を拠点とするスンニ派過激組織アル・シャバーブ(Al Shabaab)といったテロ組織はその勢力をさらに強め、人々から権利を奪う経済状態を助長している。
予想外の結果とはまさにこのことだ。
仮想通貨が答えとなるのか?
“サイファーパンク的に”答えるならば、政府なんてどうでもいいということになるだろう。ビットコインは規制を受けた組織による介入なしにP2P(ピアツーピア)のデジタル決済を可能にするのだから、人々はビットコインを使うべきだという主張だ。
問題は、仮想通貨オンランプ(仮想通貨から法定通貨への交換サービスを提供する場)とオフランプ(法定通貨から仮想通貨への交換サービスを提供する場)に対して、政府の監視がさらに厳しくなってきていることにある。FATFによる新しい「トラベル・ルール」は、仮想通貨取引所は顧客だけではなく、顧客の顧客の情報の取得も義務付けられるべきとするもので、取引所間の情報の共有を強いることになる。これはつまり、仮想通貨取引でKYCを必要としない唯一の環境は、セルフカストディーのウォレット間だけになることを意味する。大半の取引所を支えるカストディー構造に取引が触れた瞬間に、仮想通貨はKYC報告の対象となる。
分散型取引所(DEX)は、価格とマッチングサービスを提供するが、顧客のコインのカストディー業務を行うことはなく、この問題を回避するための道となるかもしれない。最近のFinCENのガイダンスでは、DEXはアメリカで規制を受けるマネーサービス企業の定義から除外されている。
しかし、仮想通貨支持団体のコイン・センター(Coin Center)は、規制を受けた「仮想資産サービスプロバイダー」というFATFの定義は、資金を「移転」する組織に曖昧に言及しているとする懸念を表明している。曖昧さは不確実性を生む。多くの弁護士は顧客であるDEXに対して、安全を期してKYCを課すように勧めるだろう。
発展途上国の人にとって、ビットコインをメインの会計単位や取引の手段として利用することは非現実的である。おそらくリブラは、そのバスケットを基盤とした安定性のメカニズムによって、日々の支払い手段へと進化を遂げることができるかもしれないが、フェイスブックのブロックチェーン責任者デビッド・マーカス(David Marcus)氏の議会証言で見られた通り、企業が支えるこのプロジェクトにはKYCが必要となる。
結論:貧困層は、簡単にアクセスできるフィアット・オンランプ(法定通貨から仮想通貨への交換サービスを提供する場)を必要としている。
テクノロジーの進歩を監視する
振り出しに戻ってきてしまった。金融包摂の目標は、政府の犯罪対策方針の犠牲となって苦境に陥る。
政府がお金を犯罪の対象から外すべきだという議論も可能である。麻薬取引や武器取引などの実際の犯罪とは戦うが、価値交換の権利は人権として扱うのだ。しかし、現実的になろう。そんな事態は実現しない。
では、この悪循環からどのように抜け出したら良いのだろうか?その答えは、現在利用されている方法ではないが、偽名アカウント間の取引を追跡するブロックチェーン自体の能力にあるかもしれない。
しばらく前から、エリプティック(Elliptic)やチェイナリシス(Chainalysis)といった取引追跡企業は、法執行機関が犯罪者の元に出入りする仮想通貨の支払いを追跡することを支援し、企業に厳格なAML監視サービスを提供してきた。
コーラル・プロトコル(Coral Protocol)やサイファートレース(CipherTrace)といった新規企業は、ハイテクネットワーク分析と暗号化による保護を利用して、顧客の個人を特定できる情報(PII)を明らかにすることなく、疑わしい行動にフラグを付けることができるように、企業による仮想通貨メタデータのシェアを支援している。これによって、企業がFATFのトラベル・ルールを遵守することが容易になり、より洗練されて体系的なリスク分析を作り出すことが可能になる。
KYCの規則は別として、「ボット」にますます支配されている仮想通貨経済にとって真の価値がここにはある。
それでも、法の目をかいくぐる方法はない。オンランプ、オフランプにおいて、顧客は身元確認を受けなければならない。そして、これらの洗練された追跡ツールを装備した法執行機関の命令の下、企業はブラックボックスを開示し、当局にPIIを引き渡す必要がある。
新しい考え方
しかしもし、オンランプとオフランプにおいて貧しい人々を正式に身元確認することは不可能であり、不要である、と政府が譲歩したらどうだろう?政府がエンドポイントを身元不明のノードとして扱うAMLモデルを受け入れ、それらの新しい分析ツールを利用して、身元ではなく行動に基づいてネットワークへのアクセスを積極的に管理したらどうだろう?
ここで、エリプティックと共同で進められている、MIT-IBMワトソンAIラボ(MIT-IBM Watson AI Lab)による機械学習と高性能計算の研究が触媒となる可能性がある。ラボの研究者マーク・ウェバー(Mark Weber)氏が説明する通り、チームは「巧妙な犯罪ネットワークによって利用される複雑な階層化や難読化の企み」が突きつける難題に対処することを目的として、高度なマネーフローの科学捜査を生み出すために、「グラフ畳み込みネットワーク」と呼ばれるアプローチを採用している。
ビットコイン取引の巨大な蓄積をマッピングし、研究者たちは違法と合法の行為を見分けるパターンを特定した。近く発表予定の論文の中で、研究者たちは金融包摂目標への貢献として研究結果を位置付けている。
いつの日か企業が従来のKYCを適用せずに、仮想通貨ネットワークへのアクセスポイントを管理するためにそのようなツールを用いて、公式の身分証なしでも、善人が金融サービスを享受し、犯罪者は金融サービスを受けられないことを確実にするようになるかもしれない。
規制当局もそのような方向に向かって努力していくだろうか?現状の考え方のままではそうはならないように思われる。コンプライアンスは、アクセス自体を管理するためではなく、犯罪者を特定し、捕まえるために利用されている。どちらかといえば規制上の傾向は、国家発行の身分証へのさらなる依存と、「ハイリスク」な貧困層の金融機関によるさらに保守的な取り扱いへと向かっている。
規制当局と革新的技術
仮想通貨コンプライアンス専門家のジュアン・リャノス(Juan Lianos)氏は、規制当局が「イノベーションに対して心を開いていない」と不満を口にする。「政府発行の身分証がスタンダードとなっている限り、この問題は存続し続けます。匿名のものはなんでも物議を醸し、許されません。非常に残念なことです」と、リャノス氏は続けた。
それでも、FATFの最新の審議には、イノベーターに対する“和解の申し出”が含まれていた。「政府や民間セクターが提供するデジタルアイデンティティー」の可能性を検討する意志が示されたのだ。
その「民間セクター」という部分と、リブラのホワイトペーパーの中で金融包摂のソリューションとして「ポータブルなデジタルアイデンティティー」が簡潔に言及されたことを組み合わせれば、リブラ協会(Libra Association)のメンバーのような金融・テクノロジー企業が、国家発行の身分証という時代遅れの考えにはもはや依存しない、貧しい人向けのソリューションを考え出していくことが少なくとも想像できるだろう。
このアプローチは、交換を正しく人権と捉える、強硬派のプライバシー保護論者を満足させることはないだろう。
しかし、実用的なソリューションとして、世界の20億の非銀行利用者層にとってはおそらく最大の希望である。
マイケル J.・ケイシー(Michael J. Casey)はCoinDeskのアドバイザリー・ボード委員長で、マサチューセッツ工科大学(MIT)のデジタル通貨イニシアチブ(Digital Currency Initiative)のブロックチェーンリサーチでシニアアドバイザーを務めている。
翻訳:山口晶子
編集:佐藤茂
写真:Shutterstock
原文:Perverse Outcomes: FATF, Bitcoin and Financial Exclusion