テラ(Terra)システムと、そのアルゴリズム型ステーブルコインのUSTが今年5月に崩壊した時、暗号資産(仮想通貨)市場では価格の暴落が起こり、2008年の世界金融危機と比べられるほどであった。
テラ/USTを「クリプト界のリーマン・ブラザーズ」と呼ぶ人もいる。6月に破綻し、他の多くの暗号資産レンディングプロジェクトを道連れにした暗号資産ファンドのスリー・アローズ・キャピタル(Three Arrows Capital)の方が、リーマン・ブラザーズに近く、テラ/USTはベアー・スターンズのようなものだと考えている人もいる。
しかし、2008年世界金融危機との類似性を指摘したくなるのは理解できるが、ひとつ重大な違いがある。世界金融危機では、米連邦準備制度理事会(FRB)は市場の機能を保ち、銀行を救済するために介入した。しかし、暗号資産の世界にはFRBはいない。FRBはドルの流動性を管理しているが、暗号資産市場の状況を考慮に入れることはない。暗号資産を支えるアメリカの政府組織は存在しないのだ。
今年の暗号資産の暴落に本当に類似しているのは、2008年の世界金融危機ではなく、1929年の世界大恐慌でもない。FRBの誕生前に発生した、1907年恐慌ではないだろうか。
伝統的金融でも暗号資産の世界でも、金融危機をネットワークの不具合と考える傾向がある。しかし1907年の場合は、相互につながった個人の問題であった。ある人物の壊滅的なミスが、彼とつながっていた企業の体系的な破綻を引き起こしたのだ。同様に、今年の暗号資産暴落の背景には、壊れた友情と裏切られた信頼のストーリーがあった。
連鎖の始まり
1907年恐慌の登場人物は、オットー(Otto)とF・アウグスタス(F. Augustus)のハインツ(Heinze)兄弟、銀行家のチャールズ・W・モース(Charles W. Morse)氏、ニッカーボッカー信託会社(Knickerbocker Trust Company)社長のチャールズ・T・バーニー(Charles T. Barney)氏、資本家のジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan)氏。モルガン氏が始めた銀行は今では、世界最大規模の銀行となり、今でも彼の名を冠している。JPモルガン・チェースだ。
恐慌の始まりは、ハインツ兄弟が株式の過半数を保有していた銅採掘会社ユナイテッド・コッパー・カンパニー(United Copper Company)の劇的な破綻だ。
オットー・ハインツ氏は、投資家たちがユナイテッド・コッパーの株式をショートするために、借りていると考えた。そこで彼は、ニューヨークシティの氷市場でチャールズ・モース氏がしたのと同じように、市場を独占しようとした。
オットー・ハインツ氏は価格を吊り上げ、投機家たちを押し出すために、大量の株式を購入。「ショートスクイーズ」と呼ばれる手法だ。しかし、オットー・ハインツ氏は間違っていた。トレーダーたちは、自らのポジションを維持するだけの資金を持っていたのだ。
ショートスクイーズは失敗に終わり、ユナイテッド・コッパーは破綻。株式を買うために多額の借り入れをしていたハインツ兄弟は、金銭的に厳しい状態に置かれた。
1つの銅採掘企業の破綻が、金融危機を引き起こすはずではなかった。しかし、ハインツ兄弟と親しい友人のモース氏は、とても良くつながっていた。
アウグスタス・ハインツ氏はモンタナで銀行を所有していたが、その銀行はユナイテッド・コッパーの株を、ローンの担保として保有していた。ユナイテッド・コッパーが破綻すると、この銀行も破産に追い込まれた。これが、モース氏と関係のある3つの銀行の取り付け騒ぎを引き起こしたのだ。
これら3つの銀行はすべて、お互いの小切手を決済する時に集団で保証し合う銀行の共同体「クリアリングハウス」のメンバーであった。そのため、これらの銀行から逃げた預金は、他の銀行に行き着いた。
ニューヨーク・クリアリングハウス協会は最終的に、モース氏とハインツ氏にすべての銀行利息を放棄させることで、取り付け騒ぎを終結させた。しかしその頃には、危機は他の金融機関グループ、信託会社へと広がっていた。
信託会社への波及
信託会社は、規制を受けない預金受け入れと貸し付けを行う組織。今では「シャドーバンク」とも呼ばれる。信託会社は、顧客の資金を銀行よりも幅広い資産に投資することができる。そこには、当時増加していた新興企業の株主資本など、リスクの高い資産も含まれるのだ。
より多くのリスクをとることができるため、より高い利子を払うことができ、預金をめぐる争いで銀行に勝つことができる。当然ながら、より高い利子を求める預金者たちは、銀行と同じくらい安全だと信じて、信託会社に殺到した。
しかし信託会社は、銀行のように流動性から守られてはいない。当時銀行に義務付けられていた5%の現金準備すら維持する必要はなかったのだ。銀行と同盟を結ぶことで、クリアリングハウスの保証を利用する信託会社もあったが、クリアリングハウスのメンバーではなかった。
信託会社が問題に巻き込まれると、救済してくれる銀行や他の信託会社はなかった。現在の暗号資産銀行と同じように、単に破綻して、顧客の資金も道連れになるのだ。
信託会社は自ら銀行と同じくらい、あるいは銀行よりも安全な堅固な金融機関と謳っていた。しかし現実には、高レバレッジで、非常に脆かった。銀行より優れていると謳い、資格もない銀行保証まであると主張していた暗号資産銀行とまったく同じである。
ニッカーボッカー信託会社はアメリカでも最大級の信託会社であった。ニューヨークシティの立派なビルに居を構え、社長のバーニー氏は、尊敬される資本家だった。ニッカーボッカー信託会社が破綻するなんて、誰も夢にも思わなかったのだ。
しかし、バーニー氏の親しい友人の1人がモース氏だった。バーニー氏がニッカーボッカー信託会社の資金を使ってハインツの「市場独占」の試みを助けたという噂が広まり、預金者たちは預金を引き出すために殺到した。
ニッカーボッカー信託会社は3時間で800万ドルを支払い、流動性は枯渇。営業停止を余儀なくされた。そこでバーニー氏は、モルガン氏に助けを求めた。しかしモルガン氏は、ニッカーボッカー信託会社は支払い能力を失っていると判断し、救済を拒否した。
サム・バンクマン-フリードが下した「No」の答え
暗号資産の世界でも同様に、暗号資産取引所FTXのCEOでビリオネアのサム・バンクマン-フリード(Sam Bankman-Fried)氏がテラ崩壊の後に、暗号資産レンディングを手がけるセルシウス・ネットワーク(Celsius Network)は支払い不能に陥っていると判断し、救済を拒んだ。
ニッカーボッカー信託会社の破綻は、銀行や信託会社の幅広い取り付け騒ぎを引き起こした。銀行は互いへの貸し付けを停止し、流動性を獲得できないブローカーがトレーディングを止めたため、株価は暴落。モルガン氏は市場に即座に流動性を注入するために、富裕な個人をとりまとめ、互いにサポートするよう銀行や信託会社を説得した。
しかし、危機は続き、超富裕な人たちでも対処できるものではなくなっていた。そこでモルガン氏は、メディアと聖職者たちを使って、国民を安心させるようなメッセージを送った。最終的に、体系的な取り付け騒ぎに終止符を打ったのは、そのような情報操作と、ニューヨーク・クリアリングハウスからの1億ドルの流動性保証であったが、それも長くは続かなかった。
危機の第2弾が始まったのは1907年11月。それは、業績不振の鉄鋼企業の株を担保として受け入れるという愚かな判断をしたブローカレッジの破綻がきっかけだった。モルガン氏は再び、銀行や信託会社救済のために介入を余儀なくされた。
教訓
アメリカの金融システム全体が、1人の男に依存するようになっていた。議会がもっと堅固なものが必要と判断したのも、不思議ではない。1907年恐慌は、FRBシステムの創設に直接つながったのだ。
1907年と同じように今年も、1人の男がシステムを崩壊させ、それを支えたのも別の1人の男だった。ドー・クォン氏は、人脈が極度の脆弱性を生んだ銀行家チャールズ・モース氏に相当する。サム・バンクマン-フリード氏は、現代版モルガン氏だ。どの企業が生き残り、どの企業が破綻するのかを決める単独の裁定者なのだ。
1907年恐慌から暗号資産業界が学べる教訓は、金融の安定性は究極的に、テクノロジーの確実性ではなく、人間がどれほど信頼できるかにかかっているということだ。
フランシス・コッポラ(Frances Coppola)氏は、銀行、金融、経済をテーマにしている。著書の『The Case for People’s Quantitative Easing』では、現代のお金の創出と量的緩和の機能を説明し、景気回復のための「ヘリコプターマネー」を提唱している。
|翻訳・編集:山口晶子、佐藤茂
|画像:1907年のニューヨーク(New York Public Library via Wikimedia Commons)
|原文:Crypto’s 1907 Moment