ビットコインと「安全」の定義の変化【オピニオン】

日常生活で「マズローの欲求5段階説」について考えるような状況はほとんどない。人間が成功のために求める欲求を5つのレイヤーに重ねた三角形だ。だが下の方に位置する欲求が満たされなくなると、途端に気になるものだ。

この理論について簡単に説明しておくと、階層の1番下は生存のための基本となる栄養、休息、住処を求める「生理的欲求」。その上は「安全欲求」、さらに所属を求める「社会的欲求」、自己肯定感を求める「承認欲求」と重なり、一番上に来るのは自分の潜在能力を完全に実現したいという「自己実現欲求」だ。

ちなみに、学者の多くがマズローの意見に同意していない、そしてマズロー自身はピラミッドで表現していなかったことはよく知られている。

ピラミッドの中に「信頼」の階層がないことが気になる人がいるかもしれない。食べても死なないと食べ物を信頼する必要がある、家が吹き飛ばされないと信頼する必要がある、友情が沈んだ気持ちを励ましてくれると信頼する必要があるなど、信頼はすべての階層において前提条件になっているとも言える。

信頼が最も関連しているのは「安全欲求」で、私はそこに分類されていると理解している。信頼は、安全に感じたり、行動できるという信念を示しており、個人および文明の進歩をもたらすほぼすべての中核的要素だ。

つまり、信頼は安全にとって不可欠(安全に対する信頼がなければ安全は無意味)であり、安全は信頼にとって不可欠(基本的な安全が保証されていなければ、なにも信頼できない)。

では、「安全」とは何かという我々の信念が変わり始めたら、どうなるだろう?

変化する「安全」な投資

金融の世界では、何が安全で何が安全ではないかということが変わり始めている。「安全で、よく考えられた投資」がどうなっているかを見ていこう。

米国債は市場において、最も安全な資産と考えられている。米政府が債務不履行に陥ることはないからだ(だよね?)。だが4月、米国債のボラティリティは2008年の金融危機以来の高水準となった。1980年代以降最速の利上げが続いたこの1年で、利上げリスクはかつてないほど高くなっている。債券の価値は大幅に下落し、米政府の債務不履行に対するコストはこの10年で最高水準にまで上昇している。安全とは言えなそうだ。

米国債のボラティリティ(TradingView)

株式はどうだろう? 株式は最もリスクの高い資産と言われるが、長い視点で見れば、右肩上がりとなっている。下のチャートは、S&P500と長期米国債のインデックスを重ねたもの。どちらが安全に見えるだろう?

青:S&P500、オレンジ:米国債20年超ETF(TradingView)

投資の分散化という知恵もある。大型のインデックスを真似れば、リターンはより分散されるという考え方だ。しかしさらに深く掘り下げて考えてみると、ハイリスクのIT株がS&P500の約30%、時価総額ランキングのトップ6を占めている。分散化というよりも集中化であり、リスクはさらに高まる。

60/40ポートフォリオという言葉を、投資アドバイザーと話をしたことがある人なら聞いたことがあるだろう。株式か債券のどちらかだけに投資するのではなく、60対40の比率で両方に投資した方がより安定したリターンが得られるという考え方だ。しかし60/40ポートフォリオの昨年のパフォーマンスは、名目ベースで18%マイナス。S&P500のダメージとほぼ変わらなかった。安全ではなかった。

住宅なら安全だろうか? 先日発表されたデータによれば、アメリカの住宅価格は下落中だ。1月は12月から0.2%下落、昨年6月と比べると3%下落している。昨年の株価の下落幅に比べると小さく見えるだろうが、多くの場合、住宅は家計の中で最も大きな投資であり、下落はダメージが大きい。だが住宅は、住処としての安全性を提供していると言えるだろう。

ゴールド(金)は、人類が知る最古の「安全な避難先」であり、流動性のある市場と(理論的には)操縦できない供給を備えた耐久性の高い金属だ。しかし、手にしたものが本当にゴールドであると確証を持てない場合もあり、保管したり、奪われないようにしておくことは手間がかかる。ほぼあり得ないが、保有するゴールドの価値がゼロになる可能性もある。あまり安全とは言えなさそうだ。

もちろん「最も安全」なのは、証券市場を完全に避け、銀行口座に全財産を預けることだ。アメリカの銀行システムは「強力で、回復力がある」と、規制当局は公式に主張しているが、預金者たちは不安を抱えている。それでも今のところ、預金引き出しの動きは落ち着いたようだ。しかし、銀行システムのデジタル化が進んでいることは、そうした状態が瞬時に変わる可能性があることを意味している。すべての預金が保護されるかどうかはまだわからない。

そして、ビットコイン(BTC。まったく安全ではなく、「危険」とさえ言われている。だがこの1年の暴落や騒動の間にも、ビットコインは稼働し続けていた。価格は下落したが、ビットコインが止まることはなかった。さらに混乱時期には、押収されにくく、動かすことが簡単な資産は、家を追われて避難する多くの人々や、伝統的な決済システムから締め出されることを心配する多くの人々にとって改めて安全に感じられただろう。

そもそも安全が大切なのか?

「安全」とは何を意味するのか、リターン、継続性、あるいは独立を意味するのかを再検討する時期だと認識し始めたちょうどその時、私たちは安全がなぜ重要なのかを問うカルチャーシフトを経験している。

新型コロナウイルス感染拡大前から組織に対する信頼は低下しており、世界中で見られる政治の二極化は、政府が守ってくれるという信頼を弱めていった。とりわけ、常に再認識させられているとおり、地球自体が困難な状況に置かれているのだからなおさらだ。

さらに、投資の「ゲーミフィケーション」もある。投資判断に対して画面一杯の紙吹雪や、少なくとも何らかの称賛が与えられるものだ。楽しさは一般的に安全に勝る。特に若者が貯蓄して備えておくはずの未来が、寒々としたものに思えている場合はなおさらだ。

ここにさらに、既存システムの完全に外側にあり、独立性、フラットなコミュニティ、そして当局の善意に対する懐疑心に対する要求の高まりを浮き彫りにする新しいタイプの資産への関心の高まりが加わる。

これらすべては、ビットコインをはじめとする暗号資産は、単に「リスクの高い」投資資産をはるかに超えたものだという必然的な認識につながる。暗号資産は、ますます独立を強める世代の投資家に訴えかける投資哲学の変化を象徴している。さらに、もはや意味をなさない安全ルールを行使しようとする当局の権力を弱める文化的、政治的な変化も表している。

信頼と安全が相互に関連するマズローのピラミッドに話を戻そう。

一方が変化すれば、もう一方も変化する。だからこそ、今目の当たりにしている投資フレームワークの変化は、ポートフォリオの配分をはるかに超えた話だ。より大きな社会的変化であり、世代を超えて構築されてきた知恵は「伝統的」という理由だけで投げ捨てられるべきではないが、慣習に疑問を持つことは文化をよりフレキシブルで、レジリエントなものにするということだ。

新しいものから手を引くことは、脆弱性を増大させる。まったく安全ではない。

ノエル・アチェソン(Noelle Acheson)氏:CoinDeskとジェネシス・トレーディング(Genesis Trading)の元リサーチ責任者。

|翻訳・編集:山口晶子、増田隆幸
|画像:Shutterstock
|原文:Bitcoin and the Changing Definition of ‘Safety’