ワールドコイン設立秘話:Orbの内幕【後編】──「最初の100万人が次の1000万人を納得させ、彼らが次の1億人を、1億人が残りの数十億人を納得させる」アルトマン氏

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スキャンの現場

80億人分の眼球をスキャンするという目標は、滑稽と言っていいほど野心的だ。考えてみれば、生体認証抜きにしても、例えば、地球上のすべての人に無料でキャンディを配ることは、ロジスティクス的に極めて大変な挑戦。どうやって遠隔地をカバーするのか? 貴重なOrbをどうやって安全に運ぶのか? 迫り来るAGIの力とUBIの必要性、そして暗号資産のメリットとの間のこの複雑な関係をどう説明するのか?

売り文句は基本的に「タダで暗号資産を手に入れよう!」だ。

このメッセージは時間ともに洗練され、複雑化し、ニュアンスが変化してきたが、核となるのは「サインアップすれば、無料で暗号資産を受け取ることができる。このOrbは、あなたがこれまでに登録したことがないことを証明するもの」というところだ。

コメディに出てきそうな、ブラニア氏の最初の実地テストを振り返ってみよう。ドイツの公園でブラニア氏はOrbを手に取り、声をかける人を探した。彼は2人の若い女性を見つけた。話しかけるべきか? Worldcoinのチームは遠くから見守っていた。

ベルリンのオフィスで、ブラニア氏はスマートフォンで誰かが撮ったこのシーンの写真を見つけ、私に見せてくれた。バーで緊張しながら、勇気を振り絞って女性に声をかける男の雰囲気だった。

ドイツの公園で

ドイツの公園に話を戻すと、彼らはまだ初期の「ビットコイン・プロジェクト」の時代だった。ブラニア氏は女性の1人に声をかけ、Orbを見せて、タダでビットコインをあげることができると伝えた。

「この装置がする唯一のことは、あなたがビットコインを一度しか手にしないようにすることだけ。それでも、ビットコインを手に入れることができるのだから、そのことを喜ぶべき」とブラニア氏は女性に話しかけた。女性はシンプルな返事をした。

「正気ですか?」と。

彼女は虹彩スキャンを受けないことを選んだが、彼女の友人が志願したため、すべてがムダになったわけではなかった。ブラニア氏は笑いながらこう語った。

「彼女は僕のことを魅力的だと思ったんだよ」

実際にそうだったとしても、驚きではない。ブラニア氏はハンサム。彼は魅力的で知的であり、Worldcoinのメリット、ニュアンス、存在意義について明確かつ説得力のある話ができる(感銘を受けない人はいないだろう)。

ブラニア氏は1人しかいない

しかし、アレックス・ブラニア氏をどうやってスケーリングするのか? もしブラニア氏をクローン化できれば、おそらく彼はひとりで、80億人全員を参加させることができるだろう(サム・アルトマン氏の次のスタートアップとして「クローン」を提案したい)。

しかし、クローンを作らない私たちの現実世界では、ブラニア氏と少人数のチームが当初できたことは、ベルリンの街角でOrbを持ち歩き、人々にOrbを見せ、その場で説明しようとしたことだけ。

「それが文字通り、初期のやり方だった。ピカピカ光るクロームのボールだから、人々は私たちに近づいてきて、『それは一体何なの?』という感じだった」

ブラニア氏が話題にしているのは初期のOrbで、奇妙なロボットのような声でユーザーに話しかけ、近づいたり離れたり、あるいは左に移動するよう指示するものだった(それ以降、チームはこのプロセスを自動化するための発明を次々と行っている)。ロボット音声は見物人を困惑させ、また楽しませ、ときには笑ってOrbと自撮りをする人たちもいた。

新植民地主義の問題

あまり笑えないのは、ナイロビ、スーダン、インドネシアでユーザーを募集しようとした初期の試みだった。MITテクノロジーレビューは2022年4月、『欺瞞、搾取される労働者、現金支給: Worldcoinはいかにして最初の50万人のテストユーザーを集めたか』と題した7000ワードに及ぶの特集記事を掲載。ライターたちは、このプロジェクトの高尚な目標にもかかわらず、「今のところ行われていることは、貧しい人たちから生体認証データベースを構築することだけ」と論じた。

この衝撃的な記事は、偽情報、データの欠落、Orbの誤動作に満ちた粗雑な運用を報告している。

「私たちの調査によって、プライバシー保護に重点を置いたWorldcoinの公式メッセージと、ユーザーが経験したことの間に大きなギャップがあることが明らかになった」とアイリーン・グオ(Eileen Guo)氏とアディ・レナルディ(Adi Renaldi)氏は指摘。「私たちは、同社の代表者が欺瞞的なマーケティング手法を用い、認めているよりも多くの個人データを収集し、有意義なインフォームド・コンセントを得られなかったことを突き止めた」と主張した。

私はブラニア氏とアルトマン氏の2人に、この記事について尋ねた。

初期段階の失敗?

「まず理解すべき重要な点は、この記事は弊社がシリーズAを終える前に出たことだ」とブラニア氏。彼は、それが言い訳にはならないことを認めつつも、プロジェクトが初期段階にあったこと、そしてそれ以降、「文字通りすべてが変わり」、より厳格な運営とプロトコルが導入されたことを強調した。

「同じことはひとつもない」とブラニア氏。もちろん、この反論に対する反論は、このようなミスの可能性があるからこそ、どんなに善意のチームであっても、人々は自分の生体認証データを共有することに不安を覚える、というものだ。

ブラニア氏はまた、この記事が(彼の言葉を借りれば)「世界中の貧しい人々を登録させようとする植民地主義的なアプローチ」かのように形容していることにも腹を立てている。

当時、登録者の50%以上がノルウェーやフィンランド、ヨーロッパ諸国といった裕福な地域からだったため、こうした表現は誤解を生むものだと彼は主張する。彼らの目標は、先進国と発展途上国、暑い地域と寒い地域、都会と田舎の両方でサインアップのテストを行い、何が上手く行き、何が上手く行かないかをより理解することにあった。

アルトマン氏は、このような失敗は大規模な事業につきものの成長痛と考えている。

「どんな新しいシステムでも、最初は失敗に直面する。それが、私たちが長い間、ゆっくりとしたベータ期間を行ってきた理由のひとつ。どのように間違われる可能性があるのか、そしてその可能性をどのように軽減するのかを理解するためだ。この規模で、これほどのレベルで野心的なもので、失敗の問題がまったくないシステムを私は知らない。その点については思慮深くありたい」

ユーザーがユーザーを呼ぶ

これらのミス軽減措置のひとつは、Orbオペレーターに報酬を支払う方法を変更することだった。現在、200〜250のOrbが稼働中で、およそ20人のOrbオペレーターがそれぞれ、現場で手伝うサブチームを雇っている。当初、Worldcoinは単にサインアップ数に応じてオペレーターに報酬を支払っており、それが杜撰な方法や失敗につながっていた。

ブラニア氏によれば、現在オペレーターは、サインアップ数だけでなくクオリティ、ユーザーの理解度に応じて報酬を受け取る。Orbスキャンの数週間後、ユーザーが実際にWorld Appを使用していれば、オペレーターにはより多くの報酬が支払われる(現在、World Appの主な利用方法は、毎週1回もらえるWorldcoinを受け取ることだ)。

私はスペインの2人のオペレーター、ゴンザロ・レシオ(Gonzalo Recio)氏とフアン・チャコン(Juan Chacon)氏に話を聞いてみたが、2人ともおおむね、この新しいプロトコルがブラニア氏の話どおりに運用されていると語ってくれた。しかし、このプロセスが世界中でしっかりと守られているかどうかはわからない。

Worldcoinが本当に問題に対処していると、どうすれば人々は信用できるだろうか? アルトマン氏はそのような疑問を耳にしても、懐疑的な人たちを納得させることはできないだろうと思っている。アルトマン氏は、自分が懐疑論者を納得させるような答えを持っているとは思っていないし、それで構わないようだ。より説得力のある答えは、彼やブラニア氏や会社からではなく、Worldcoinの初期ユーザーから得られると考えている。

「たくさんの質問に答えようとしたり、いろいろなことをやってみたりすることはできるが、実際に上手く行くのはそういうやり方ではない」とアルトマン氏は語る。

「本当に効果があるのは、最初の100万人、初期の採用者たち、身を乗り出した人たちが、次の1000万人を納得させること。そして、その次の1000万人は素人に近い。そして彼らが、次の1億人を説得する。そして、そのような本当の素人の1億人が、残りの数十億人を納得させる」

政策と未来

ブラニア氏は、もしWorld IDとWorldcoinのユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)が大規模かつ全面的に採用されれば、それは 「おそらく、これまでに起きたなかで、最も深遠な技術的シフトのひとつになるだろう」と述べた。もし本当にそうだとしたら、政府が考慮しなければならない一連の複雑な法的、政策的、さらには実存的な疑問が新たに生まれるのではないだろうか?

ベルリンのオフィスでの取材中、ひとつの疑問が心に引っかかり続けていた。それは、このプロジェクトがあまりに野心的で、あまりにワイルドで、あまりに変革的であるため、少なくとも理論上は権力者たちがその影響を十分に考慮していないように感じられることだ。

もし人類が労働によってではなく、AGIの気前の良さによって報酬を得られるとしたら、それは世界の構造の根本的な変化を意味するのではないだろうか? そうならば、政府はこれを規制することを強く求めるのではないだろうか? その答えがイエスだとすると、Worldcoinはその問題にどう取り組んでいるのだろうか?

ブラニア氏は椅子にもたれかかり、長い足を伸ばしてしばらく考えた。「それは明らかに、大きな論点だ。まずは、現在最優先になっていることから話を始めよう。そして、その優先事項は実は、あなたが今あげたものと比べると、まったく高度な話ではないのだ」とブラニア氏は話を始めた。

ブラニア氏によれば、彼らが今注目しているのは、アメリカにおける規制の不確実性という基本事項だ。Worldcoinは「世界でこれまでに見られたなかで、最大規模の暗号資産へのオンボーディングになる可能性が非常に高い」とブラニア氏。「ということは、あなたがもし暗号資産が嫌いなら……」

政策決定者たちの理解

アルトマン氏は、政策決定者が無知であるとか、現実から目を逸らしているといった意見に反論した。

「私は22カ国を訪れ、多くの世界のリーダーと会ったが、私が考えていた以上に、人々はこれを理解し、極めて真剣に取り組んでいる」

ただし、「これ」がWorldcoinの特定の野望を指しているのか、AIがもたらすより広範な課題を指しているのかはわからない。

「私は今、技術的なことではなく、政策的な課題にますます多くの時間を費やしている。結局のところ、世界がこのすべてを通じて良い場所に到達するためには、テクノロジーと政策が一緒になった2点セットの解決策でなければならない。そして、政策の部分の方がある意味、より困難であることが判明するかもしれない」

政策によるハードルは、Worldcoinにとってリスクのひとつだ。十分なスピードでスケーリングしないことも、Worldcoinにとってのリスク。MITテクノロジーレビューで取り上げられたような、現場での不手際が増えることもリスクとなる。あるいは、虹彩データの漏洩の可能性。あるいはトークノミクスの失敗。あるいは将来的なサインアップを阻害する信頼の喪失。あるいは、Orbを世界中のより困難な地域に持ち込むための物流上の課題。あるいは技術や製造上の不具合。あるいは、Orbが何らかの形で不正アクセスされていることが発覚すること(ブテリン氏が指摘したように「Orbはハードウェアデバイスであり、それが正しく構築され、バックドアを持っていないことを確認する方法がない」)。

あるいは、Worldcoinはいつまで経っても数円以上の価値を持つことがないために、誰も見向きもしないかもしれない。Worldcoinが広く普及するまでの、どうしようもなく長い道のりには多くのリスクがあり、このプロジェクトは依然として、月探査ロケットの打ち上げのような困難で、壮大なものであり続けている。

最大のリスクとは

しかし、同社の頭脳集団が考える最大のリスクは、Worldcoinそのものに関するリスクではない。彼らにとって最も恐ろしいリスクは、生体認証型World IDのようなものが、オープンだったり、プライバシーを保護するものではない形で開発されることだ。

ChatGPTが主流になるかなり前に、アルトマン氏が提唱した独自の論理は今も説得力がある。AIは最終的には、非常に優れたものとなり、人間のふりをすることができるようになる。そうなると、人間性を証明する方法が必要になる。おそらく生体認証による証明は避けられないだろう。

その解決策を誰が担うべきか? 「World IDのようなものが必要になるだろう」とブラニア氏は語り、次のように続けた。

「オンラインで自分自身を認証する必要があるだろう。そのようなことが起こるだろう。そして、デフォルトの道では、それは本質的にオンラインではなく、プライバシーを保護するものでもなく、政府や国によって分断されているものになる」

プライバシーを保護しないバージョンの生体認証による審査こそが、ブラニア氏にとって、まさに『ブラック・ミラー』のエピソードである。「それがデフォルトの道。Worldcoinがそれ以外の唯一の道だと思う」とブラニア氏は語った。

|翻訳・編集:山口晶子、増田隆幸
|画像:Shutterstock
|原文:The Untold Story of Worldcoin’s Launch: Inside the Orb