米司法省(DOJ)が8月23日、トルネード・キャッシュ(Tornado Cash)の開発者らを起訴したことは、プライバシーを軽視しているように見える米政府の姿勢に合致している。
政府全体には、個人が自分の生活の詳細を非公開にしたいと望むことは、不正行為に関与していることを意味するという凝り固まった思い込みがあるようだ。この単純すぎる思い込みは、法律や、なぜ法律を守る無数の市民にとって、その日常生活においてプライバシーが非常に重要なのかという現実に合っていない。
また、このような思い込みを持っていては、21世紀における市民のプライバシーの権利と、政府が法律を効果的に執行できるようにする必要性とのバランスを適切にとることもできない。
プライバシーの縮小と政府権限の拡大
ここ1世紀で、私たちの日常生活のほとんどすべてにおいて、以前とは比べものにならないほどプライバシーが守られないものになるような形で世界は変化した。デジタルの世界では、私たちの会話、私たちが行く場所、私たちがお金を使うもの、それらほとんどすべてに第三者が関与し、その情報を追跡し、しばしば安全でないデータベースに保管していることが多い。
人々がゴールド、そして後に現金を取引するようになったとき、違法であれ合法であれ、令状や召喚状なしに政府がその取引を追跡する方法はなかった。人々が日常生活を送るなかで、永久的なデジタル記録を作成することはなかったからだ。
政府は、ある人物が犯罪を犯していると疑われる場合、その人物の後をつけまわし、紙幣に印を付けてお金を追跡するという、昔ながらの地道な捜査をせざるを得なかった。
最近になって、政府は私たちの金融生活に対する洞察と先制的監視の権限を格段に増した。例えばアメリカでは、1970年に銀行秘密法が制定され、金融機関はマネーロンダリングを防止するための政府の取り組みに協力するために、記録保持と報告を行わなければならなくなった。その結果、私たちが銀行に提供する情報のほとんどは、政府が簡単に閲覧できるようになった。
さらに、金融機関に対するJohn Doe召喚状(身元不明者への召喚状)によって、政府は裁判所が出す捜査令状抜きで、さらにはどのような犯罪が捜査されているのか、個人情報がターゲット、容疑者、目撃者に関係するものなのかを明らかにする必要なしに(購入履歴や支出履歴を含む)膨大な量の情報を入手することができる。
言い換えれば、政府は個人情報にほぼ自由にアクセスできる。そして驚くべきことに、銀行や金融機関は、自分の情報が引き渡されたかどうかを顧客に伝えることを禁じられている。
自由と安全のバランスを取る
「何も悪いことをしていないのに、何を隠す必要があるのか」という言葉が、プライバシーに対する反論としてあまりにも頻繁に使われている。実際には、生活における金融に関する部分や、やり取りを秘密にすることを望む、まったく正当な理由がある。
例えば、政治的な活動や宗教団体に、自分の意見のせいで迫害されることを恐れずに寄付をしたいと思うかもしれない。秘密を守るため、あるいは恥ずかしさから、あるいは他の理由から、誰にも知られずに品物を購入したいと思うかもしれない。後で政府高官によって文脈を無視して解釈されることを恐れずに、友人と自由に話したいかもしれない。
アメリカほど自由な国では、私たちの信念、交友関係、ライフスタイルが、刻々と変化する政治情勢と対立する可能性があることを忘れがちになる。だからこそ、憲法修正第4条の権利を侵害する正当な政府の利益や、やむを得ない必要性がない限り、政府が個人情報にアクセスすることは憲法で禁じられている。
プライバシーの議論は何十年も続いている。個人のプライバシーと、犯罪防止や政府の重要な利益のために特定の状況下でプライバシーを制限する正当な必要性とのバランスを取ることには常に緊張がつきまとう。その過程で失われてしまったように思えるのは、政府と市民の間の相互尊重と疑わしい点を好意的に解釈するという姿勢だ。
法の支配と正当な政府権限の行使は、自由と安全の適切なバランスに取り組み続けることを必要とする。暗号化された電子通信や匿名での支払いを可能にするアプリのような新しいテクノロジーは問題を複雑にしている。
新しいテクノロジーには新しいルールが必要であり、そのためには、テクノロジーに関わると同時に、テクノロジーの落とし穴やメリットについての好奇心と教育が必要だ。特定の事件や疑惑についてどう考えるかにかかわらず、個人の確立されたプライバシーを肯定するという理由だけで、新しいテクノロジーを全面的に否定するようなことがあれば、私たちは疑問を呈するべきだ。
|翻訳・編集:山口晶子、増田隆幸
|画像:Marco Bianchetti/Unsplash
|原文:When Did Privacy Become a Bad Word?