イーサリアムの生みの親であるヴィタリック・ブテリン氏は11月27日、新しい「テクノ・オプティミズム(技術楽観主義)」の哲学を説明する長い長いブログを発表した。これは「d/acc」と呼ばれるもので、「d」は分散化、防御、差異を意味し、「/acc」は 「acceleration(加速)」の略語だ(今、ソーシャルメディア上で流行している)。
加速主義(Accelerationism)は、テックラッシュ(巨大テック企業に対する反感)を持つ人たちの心配の種だったが、学術的な概念(もともとは、科学、理性、技術が歴史を通じてどのように進歩を促したかを研究するもの)であり、研究室から抜け出し、現在では本質的に「私はテクノロジーに肯定的だ」という意味を表す。
楽観と悲観の中間
常に思慮深いブテリン氏は、技術楽観主義と悲観主義の中間を見出しており、広く言えばテクノロジーは良いものだが、一部のテクノロジーは他よりも優れており、一部のテクノロジーは実質的にマイナスになり得ると主張している。
DeFi(分散型金融)をテーマにしたWebサイト「The Defiant」のカミラ・ルッソ(Camila Russo)氏がすでに、次のとおり素晴らしい要約をしている。
「ブテリンの『d/acc』哲学は、防御、分散化、人間の繁栄を保証するテクノロジーに焦点を当て、技術開発における慎重でバランスの取れた道筋を提唱している」
「このコンセプトは、マーク・アンドリーセン(Marc Andreessen)氏のような人物が唱える奔放な技術楽観主義に対抗するものとして登場し、e/acc(効果的加速主義)運動に挑戦するものだ」
アンドリーセン氏への反論
実際、ブテリン氏は、非常に影響力のあるVC企業アンドリーセン・ホロウィッツ(Andreessen Horowitz:a16z)の創業者で、世界初のブラウザ「Netscape」を開発し、先月「Techno-Optimist Manifesto(テクノ・オプティミスト・マニフェスト)」を発表して大きな反響と関心を呼んだアンドリーセン氏に反論しているとはっきりと認めている。
アンドリーセン氏は、テクノロジーと市場について多くのことを語っているが、同氏はそのどちらにも賛成している。同氏のマニフェストの一部は、ポエトリースラム(詩を朗読しそのパフォーマンスを競うイベント)で披露できるようなものだ。極めて警句的で、ほんの少し繰り返しがある(例えば、「豊かさ」は善というセクションも、人類がモノを作り、楽しむためには、より多くの「エネルギー」があった方が良いというその前の記述から推測できないだろうか?)。
しかし、私はビリオネアではないから、そんな判断を下す立場にはないだろう。
重要なのは、アンドリーセン氏に賛同する技術楽観主義者は「テクノロジーは世界に対するテコであり、より少ないものでより多くのものを作る方法である」と信じているということだ。つまり、AI(人工知能)や原子力、市場といったテクノロジーは自由であるべきということだ。競争は選択肢を増やし、進化のプロセスのようなものだから、競争は進歩をもたらす、というわけだ。
このような考えの多くをブテリン氏も信じているようだ。しかし、スマートなブテリン氏は、物議を醸す加速主義派の大物ニック・ランド(Nick Land)氏に言及して、その関連から自らの考えを即座に否定されるようなことはしない。
否定的な人々はおそらく、「減速」や「脱成長」、つまりテクノロジーの減速や経済のポケットサイズ化といったことも信じているのだろう。このような考えは、アンドリーセン氏にとって「敵」だ。
テクノロジーのはらむリスク
アンドリーセン氏には、産業革命や農業における化学肥料のような進歩を想像する先見の明がなかったため、人口過剰がイギリスを破滅させると誤って予言したマルサスなど、多くの敵がいるが、アンドリーセン氏は、テクノロジーがときとして人類の敵になり得ることを考慮していない。
私の知る限り、アンドリーセン氏はテクノロジーがマイクロプラスチックや地球温暖化のような小さなものから大きなものまで、ときとしてリスクをもたらすことに一度も触れていない。それは残念なことだ。同氏は未来である子供たちについて考えることに多くの時間を費やしているが、リスクに冒されてしまっては、子供たちは未来を担うことはできない。ありがたいことに、ここがブテリン氏の出番だ。
前述したように、ブテリン氏はデジタルテクノロジーが支配を強要し、プライバシーを侵食し、権威主義を助長するために使われる可能性があることを強く認識している。ブテリン氏は、はしかのように動物の伝染病がしばしば人間に感染することを考慮し、工業的な工場畜産が将来どのようにパンデミックを引き起こす可能性があるかを考えている。今話題の、ならず者AIのリスクについても多くの時間を割いている。
テクノロジーの「意図的な舵取り」
これは良いことだ。というのも、ブテリン氏はまた、ブレイン・コンピュータ・インターフェイスや自己投与型オープンソースワクチンやネブライザー、DAO(分散型自律組織)のようなものを検討し、現実のさらに奥深くについての考察に多くの時間を費やしているからだ。誰にでも薬が必要な時はあるが、テクノロジーは与えることもあれば奪うこともある。悪いことも良いことと一緒に考えた方がいい。
アンドリーセン氏もブテリン氏も、テクノロジーがしばしば人類の繁栄につながっていることを知っている。なぜなら、テクノロジーが人類の繁栄につながっている兆候は至るところにある。人類は善であるのだからテクノロジーは善であり、追求されるべきだ。両者が異なるのは、ブテリン氏はこの進歩が矢のように進む直線ではないことを認めている点にある。
ブテリン氏はまた、より多くのコラボレーションと、ルッソ氏が言うところの、テクノロジーの「意図的な舵取り」を求めている。一方、アンドリーセン氏は「偉人が歴史を作る」、テクノロジーは人間の創意工夫の得体の知れない深みから湧き出る力だと暗に言っているようだ。
どちらの考えにも良さがあり、社会的結束を優先するか、それとも全面的な変革を優先するかは、考え方による。
今をより良いものにするテクノロジー
同じように、どちらの哲学も、数年前、著書『Enlightenment Now(21世紀の啓蒙)』の中で、テクノロジーと理性によって世界は時間とともに良くなってきたと言い放ったことで、激しい批判を浴びた心理学者スティーブン・ピンカー(Steven Pinker)氏にヒントを得ている。つまり、まだまださらなるマニフェストの余地があるということだ。
1800年代に生きたヘーゲルから最高のアイデアを引き抜いた数年前の本を繰り返し、本質的に同じことを言う2つのマニフェストが発表されるのなら、「進歩」についてもっと多くのことが言えるに違いない。少し手を加えるだけでいい。グローバル化した視点を与えたり、ミーム学について論じたりすればいい。私はあなたのマインドのマニフェストを待つことにしよう。
ブテリン氏は、リバタリアニズムや効果的利他主義、ソーラーパンク(自然とコミュニティと相互に結びついた持続可能な未来を目指す思想)とルナパンク(ソーラーパンクよりも個人やスピリチュアリティを重視した思想)など、多くの政治システムの下で「d/acc」がどのようにうまく適合するかをうまく説明しているが、それでも「d/acc」は視点を伴ったシステムである。言い換えれば、どのような理論でもそうであるように、ブテリン氏の理論は不完全であり、反論の余地がある。
例えば、アンドリーセン氏もブテリン氏も本質的に、今が可能な限りベストな世界ではないと考えている。なぜなら、テクノロジーは常に現在の状況を改善することができるからだ。これは大した意見だ!
しかし、若きヴォルテールよ、もし今が可能な限りベストな世界だと考えているのならどうだろう? 可能な限りベストな世界は、テクノロジーによって改善されるのだろうか? 人類は後退しているのだろうか? 私は間接的に次のセオドア・カジンスキー(アメリカのテロリスト)にインスピレーションを与えようとしているのだろうか?
それを決めるのはあなただ。なぜなら、誰もがマニフェストを必要としているからだ!
|翻訳・編集:山口晶子、増田隆幸
|画像:ヴィタリック・ブテリン氏(TechCrunch/Wikimeda Commons, modified by CoinDesk)
|原文:Everyone Needs a Manifesto