中央銀行デジタル通貨(CBDC)に関するニュースが増えている。中国・デジタル人民元(DCEP、デジタル通貨電子決済)が注目されているが、日本でも日銀がデジタル通貨グループを設置したり、副総裁が「一段ギアを上げる」と述べたりするなど、CBDCの取り組みが急速に動いているように見える。こうした中、従前から本分野の研究を続けてきた野村総合研究所の井上哲也氏が『デジタル円 日銀が暗号通貨を発行する日』(日本経済新聞出版社)を上梓した。元日銀で、現在は世界の中銀の政策研究を行っている井上氏に、日本での中央銀行デジタル通貨の展望と課題について訊いた。
「デジタル円の誕生の可能性は十分あり得る」
──『デジタル円』を上梓されたばかりの著者ご本人にうかがうのは恐縮ですが、実際のところ「デジタル円」は実現するのでしょうか。その可能性はあるとお考えですか?
私は十分あり得ると思っています。
たしかに日本はデジタル通貨に対して慎重な国です。銀行券に信頼の厚い国で、たとえばもらった銀行券が偽札かどうか確認する人なんて殆どいません。深刻なアンバンクト(銀行預金を開設できない人々が多数に上る状況)が起きているような状況でもありません。現金を中心とした今のシステムでも大きな問題はないわけで、「デジタル通貨を急いでやる必要はない」という意見が根強いのも分かります。
このところ都市部を中心に、キャッシュレス決済の利用が増えているように感じている人も多いでしょう。政府がキャッシュレス比率を引き上げる目標を掲げ、決済事業者が熱心にポイント還元キャンペーンをしたためです。しかし、全体でみれば銀行券の使用率が先進国比較で依然としてかなり高いことには変わりありません。
ただ諸外国がこれだけ動きを強めている以上、日本としても無視できないはずです。日銀は最近、さまざまな取り組みについて発表していますが、おそらくは以前からきちんと研究していて、表に出ないようにしていただけだと思います。日本にとってCBDCを本気で考えるべき重要な理由があります。
──本書の最終章も「日本にとっての中央銀行デジタル通貨の意義」ですね。日本がデジタル通貨、デジタル円を真剣に考えなければいけない理由をあらためて聞かせてください。
デジタル通貨を考える時、支払いや決済の手段としての通貨自体の特性だけでなく、デジタル通貨を支えるテクノロジーや、デジタル通貨をインフラとして活用する金融サービスまで含めて、そこに強力な「ネットワーク外部性」があることを考慮しなければいけません。いったん他国発のシステム全体が独占的な地位を得ると、これに替わるのは難しい。そういう特性が主要国による覇権争いの背景にあります。
日本もこれに対処しないと、他の国が開発したテクノロジーや金融サービスに安全性や効率性の点で依存しなければいけなくなる。結果として日本の金融機関や企業の国際競争力を低下させ、グローバルなサプライチェーンにおける日本の立場すら弱体化させかねません。
たとえ日本円という通貨自体が維持できても、国内で支払いや決済のために他の主要国のシステムを活用する、というようなことになるかもしれない。
──デジタル通貨の主要プレーヤーとしては中国や欧州が考えられます。米国はさほどCBDCに熱心とは言えませんが、かといってドルの覇権をゆるがすようなことはゆるさないはずで、研究しているはずです。
中国やアメリカは人口も経済規模も大きいし、欧州はユーロ圏が結束すれば大きなマーケットがある。翻って日本はそこまで大きくありません。日銀が年初に英国やスウェーデンの中銀、欧州中央銀行(ECB)などと共同研究することを明らかにしましたが、ここにはそういった意味合いもあると思います。イギリスやスウェーデンも自国だけでは、必要な大きさのマーケットを確保するのが難しい。それは共通の課題なわけです。
それと、日銀は中央銀行として金融政策への影響も意識しているでしょう。ご存じのとおり長らくゼロ金利が続いており、金融政策が効きづらくなっている。
たしかに、中銀デジタル通貨の導入によって、中銀がただちに強力な金融緩和手段を手に入れるというわけではありません。それでもデジタル円が家計や企業の支払い、決済に広範に使われるようになれば、その量や価格──つまりは金利──を調節することで、家計や企業による経済活動の環境に直接的な影響を及ぼす可能性も生じてきます。
これは従来の金融政策のように、金融市場や金融機関での裁定関係という、長くて不安定な波及経路を通じて家計や企業の経済活動に間接的に影響を及ぼすのとは次元の異なるインパクトを持ち得ます。
実際にどうやってデジタル円を実現させるか 上下分離方式の利点とは
──最終章の最後の項目では、日本で中銀デジタル通貨を導入する際の5原則をまとめられていて、中銀デジタル通貨の導入に際しての2段階アプローチについても整理されている点、興味深く拝読しました。具体的にデジタル円ができるとしたら、どういった仕組みが考えられるのでしょうか。
本書では、中銀の当座預金にブロックチェーンなどを活用する大口決済専用のCBDC(ホールセールCBDC)ではなく、国際決済銀行(BIS)が「general purpose CBDC」としている「一般目的型のCBDC」──一般の人が現金の代わりに使えるCBDC──を主として念頭において議論しています。
考えられるのは、中銀が公的なインフラとしてデジタル通貨を発行し、その上で金融機関を含む民間企業がCBDCを活用してさまざまな金融サービスを開発し、提供する方法です。公的な主体がインフラ部分を整備し、民間業者がそれを活用したサービスを提供して競争するやり方は「上下分離方式」と呼ばれ、先進国では電力や鉄道などで一般的になっていますね。その意味でもこのやり方は珍しくなく、CBDCでも金融サービスにおいて上下分離方式を実現する考え方として注目したわけです。
まずは、中銀が銀行券をデジタル通貨で代替するだけでも、民間企業によるイノベーションの促進につながります。なぜなら、家計や企業が支払いや決済に使用する手段として中銀が発行している銀行券は、中銀の信用に裏付けされているので安全性は高いものの、物理的なやり取りが必要なので経済のデジタル化に対応するのが難しく、民間企業のイノベーションの上では支障になるからです。
上下分離ではなく完全に自由競争に委ねてしまう方法にも利点はあります。しかしキャッシュレス決済、特にQRコード決済でいろいろなプラットフォームが乱立している状況をみると、ユーザーにとって利便性が高いかと言うと疑問です。公的セクターが土台を整備した上で競争したほうが、既に消費者サービスにノウハウを有する金融機関以外の企業も含めて平等に競争できるという考え方です。
あと、これは日本の固有問題かもしれませんが、金融セクターの収益性が下がっていることに対する懸念が日銀にはあるかもしれません。つまりデジタル通貨の普及について金融セクターに任せきりにすると、思い切った投資をしてくれないかもしれないからです。
日本で日本人がアリペイを使える日──通貨の競争、インフラ企業の競争
──国際通貨としての競争もありつつ、その裏側の特に IT、決済分野の企業の熾烈な競争でもあるわけですね。
インフラの上に乗る金融サービスの競争、特に「支払や決済」に関する領域での競争がまず激しくなるでしょう。既に決済サービスに国境はありません。アリペイだって日本でも使えます。現状では日本人は使えませんが、外国人が中国国内に口座を持てるようになって、使える状況になることはいずれは起こり得る。
中国勢でなくても、米国の巨大IT企業も含めてそうした展開が進むと、日本国内で、円を使って取引されても、使われているサービスや経由する金融機関が海外勢ということも十分起こりえます。その競争がまず起きる。そして、長い目で見れば「円が残るのか」という議論にもなる。
──日本で日本人がアリペイを使えるようになると脅威ですね。特にMMFは利回りがいいのでうらやましく思ったりもします(笑)。
ただ中国は国際収支の勘定の自由化には当面は慎重でしょう。中国からの資本逃避が起きるのは避けたいはずです。中国は金融システムに不安があるので、富裕層は常に資産を外国に持って行きたいと考えているわけですから。
──なるほど、そうした大きな変化が起きてもおかしくないくらい、最近の変化は激しいですね。
特にこの1年でこの議論をめぐる環境が大きく変わったなと思います。実は本書の企画も2年くらい前に提案した時はなかなか関心を持ってもらえませんでしたから(笑)。
決済サービスの競争でも、海外の企業が世界でシェア拡大に動いています。規制の強い金融機関はともかく、ITや大手小売業、携帯キャリア、大手交通機関などのセクターは既に蓄積した顧客の購買データと消費者サービスのノウハウを使っていろいろしたいと考えているわけです。そこでインフラが統一されていれば、サービスの作り込みに専念できる。
──購買データの利活用では、JR東日本が一度反対にあって断念したということがありましたが、日本ではこうした個人のデータ利用に対する懸念が強いように思います。
たしかに日本は神経質な国と言えるかもしれません。これはドイツも同じです。なぜかどちらの国も銀行券への信用がとても厚い国です。そうしたところに国民性が現れていると言えそうです。
ただそうした点もう少しちゃんと議論すればいいだけだと思います。自分の情報を提供する対価が、直接的な金銭でなく、利便性や受けられるサービスの向上といった面も含めて確保できるといった形になれば、そこの利得を計算してどうするか決めるようになると思います。
それに中銀デジタル通貨は中央銀行が直接関与するということでもあるので、システム自体に対する信頼性はあると思います。日銀または日銀の直接の監督の下にある主体が管理するシステムに情報を蓄積した上で、ユーザーが同意した部分だけAPI のような形で外部に出して、それが読まれるというような形です。
──細かい質問ですが、中銀が直接関与するというのは、KYC(本人確認)を中銀が直接するということですか?
そこはいろんなやり方があって、本書にも書きましたが、中銀が直接やるという考え方もありますし、銀行を含む仲介業者が代わりにやる方法もある。イングランド銀行のホワイトペーパーでは、銀行だけでなく決済サービスプロバイダーと称する幅広い主体にその義務を付加して、当局が間接的にそれを管理するという形について考察されています。
情報管理について申し上げると、「情報」というものを分けて考えることも重要です。取引の内容などのホワイトな情報と、犯罪防止、マネーロンダリング・脱税防止を目的にした認証のための情報。それを分けて考えるわけです。
中国のDCEPでは認証センターと登録センターを分けるそうですが、ホワイトな情報は個人の許諾を得て銀行が管理し、犯罪防止に関する情報などは人民銀行ではなくて第三者が管理するといった方法が考えられているようです。
──情報の管理といった話で出てくるのは、「デジタル通貨だと何にいくら使ったかすべて把握されてしまう」という懸念の声です。
たしかに把握可能性は高まりますが、匿名性を持ったデジタル通貨を作るという意見や議論もあります。匿名性を持った仕組みがデジタル通貨は技術的には可能ですし、たとえば一定額以下については違う扱い方にするといった方法で匿名性をもたせるやり方も考えられます。
──銀行券という紙がなくなるというだけの意味以上のことが起きているわけですね。
CBDC、デジタル通貨の話は、金融サービスのあり方や銀行の役割、さらには金融システム全体を変えてしまうくらいに大きなインパクトを持ちうる話です。逆に言えば、デジタル通貨は、金融サービスや業界が社会全体のデジタル化の中で新しくなっていくという話でしかない。
新型コロナウイルスの感染拡大によって、デジタル化は、社会の効率化のために必要といったレベルではなく、経済社会のサステナビリティに不可欠だと分かったと思います。今後、各国政府は経済活動の回復という短期的な目的だけでなく、経済社会の長期安定のためにもデジタル化を一層強く推進するはずです。金融面でのデジタル化で重要な柱となるCBDCの導入と、それをインフラとした新しい金融サービスの導入は、ポストコロナを展望する今こそ具体的な取り組みが求められるでしょう。
文・編集:濱田 優
写真:森口新太郎