AI×医療のユビー 中川瑞穂──モルスタ、ヨガ起業、そして日本の技術を世界に

2008年の金融危機で多くの投資銀行が経営の危機に直面し、市場には不良債権が溢れかえる最中に米モルガン・スタンレーに入社。その後の8年間、まるでハゲタカのように不良債権を買いまくる仕事に没頭した。

父親の突然の死が転機となった2016年、投資銀行でのキャリアパスを捨てた中川瑞穂さんはニューヨークに向かった。ヨガやピラティス、マインドフルネス、メディテーション(瞑想)を徹底的に学び、東京・渋谷でヨガスタジオ「BEING YOGA」を開いて注目を集めた。

現在、AI(人工知能)を使って医師の問診の効率を上げるサービスを開発するスタートアップ、ユビー(Ubie)で海外事業部をリードする。中学生の頃から自己主張が強くて、破天荒な性格だったという35歳は、これまでにどんなワークライフの価値観を捨て、新たな価値を拾ってきたのだろうか。


NY研修から帰国したら世界は変わった

ニューヨーク・マンハッタンの電光パネルに「Morgan Stanley」の文字。(Shutterstock)

──大学生の頃から投資銀行で働こうと?

小説『ハゲタカ』を読んで多くの刺激を受けたと思います。東京大学経済学部で金融工学ゼミにも入っていました。

小説『ハゲタカ』:「ハゲタカファンド」と呼ばれた投資ファンドがバブル崩壊後の日本で活動する様を描いた、作家・真山仁氏の経済小説。

2008年にモルガン・スタンレーに入社して間もなく、ニューヨークでの研修を終えて帰国したら、オフィスはすごいことになっていました。債券統括本部というところに所属していたのですが、その部署のヘッドカウント(人員数)は半分くらいに減り、フロアの半分がなくなりました。

モルガン・スタンレー:三菱UFJフィナンシャル・グループは2008年9月、金融危機(リーマンショック)の影響をもろに受けた米モルガン・スタンレーへの巨額出資を発表。一方、野村ホールディングスは同月、破綻したリーマン・ブラザーズのアジア部門の買収に合意する。

寝る間を惜しむ“ハゲタカ”

「血眼になって働いてアドレナリンが出てくるのか分かりませんが、気づくと顔に髭が生えてしまうんですよ」(ユビー・中川瑞穂さん)

──金融危機後の投資銀行ではどんな仕事を?

不動産を証券化した債券や流動性のない債券を買い取る仕事が多かったですね。債権を安く買って、少しの利ザヤを稼ぐために売るんです。その多くは破綻した企業の債券などの不良債権でした。モルガン・スタンレーで4年働いた後、バークレイズ(英金融機関)で4年働きました。

大きな資金を動かして、結果を確実に出すために働き続け、それ相応の報酬が得られるのが私にとっての投資銀行だったように思います。その時は、自分自身の承認欲求みたいなものが強く満たされていたのかなと。

睡眠時間は毎日3、4時間でした。血眼になって働いてアドレナリンが出てくるのか分かりませんが、気づくと顔に髭が生えてしまうんですよ。六本木の脱毛エステに走りました(笑)。まるで荒野を生きるハゲタカのようでした。

投資銀行のキャリア捨てNYで瞑想

ニューヨーク・タイムズスクエアで開かれたヨガセッション(Shutterstock:撮影2017年6月)

──中川さんは突然に投資銀行を辞めて、ヨガ事業で起業されてますね。

2016年に父親が55歳で他界しました。人生の儚さというか、短さを感じました。そして、会社を辞めました。投資銀行でそのままキャリアを積んでいく人生もあったと思いますが、見えている人生を進むのではなく、不確実性を選んだのかなと思います。たとえ失敗したとしても、命を落とすことはないだろうと。

困っている人がたくさんいる社会で、わたしに何ができるだろうと真剣に考えました。当時の投資銀行でクタクタになる生活を続けて、自分自身も体を壊したり、心のバランスが崩すことがありました。

会社を辞めてすぐに、ヨガやピラティスのインストラクターの資格を取ろうとニューヨークに行きました。メディテーションやマインドフルネスというものが日本で流行する前でしたが、こういうもので見えない心の不調を整えることができるサービスを始めてみようと思いました。

社会のNeedと自分のWantのギャップ

──ヨガ事業は波に乗り、メディアでも取り上げられていましたね。

NYから戻って渋谷でヨガスタジオ「BEING YOGA」を開きました。スタジオに来てくださるお客様の数を増やしていきながら、企業向けのプログラムやアプリを開発できないか検討しました。

人の心の不調を可視化するのは難しいですし、その不調が改善されたかを可視化するのも難しいですよね。例えばそれがダイエットであれば、体重や体脂肪率で分かりやすいのですが。

メディテーションは1つの方法に過ぎないし、人が求める「Need」を満たす方法はほかにもいくらでもあるんです。Netflixで好きなドラマや映画に浸ることで、心のバランスを整える人も多くいるでしょう。

人の役に立って、社会全体にインパクトを与える事業を作り出すことは簡単ではないですね。当たり前のことですが、自分自身がやりたい「Want」が多くの人が求める「Need」と合致していなければ、事業としては成り立たない。経験を通じて心に刻まれました。

奮えたビジネスモデルと自分の夢

──自らが起業したヨガ・メディテーション事業を経験された後、中川さんは現在、AI×医療の分野で活躍されていますが、どんな出会いから今の会社に入られたのですか?

困っている人を助けたいという気持ちは変わらずに持ち続けていました。これからもこの気持ちを大切にしながら、自分自身の仕事に臨んでいこうと思います。これまでの4年間の仕事での繋がりから、今の会社と出会いました。

ユビー(Ubie)のプロダクトに惚れ、ビジネスコンセプトに奮(ふる)えました。

ユビー(Ubie):2017年5月に、医師の阿部吉倫氏とエンジニアの久保恒太氏が創業したヘルステックスタートアップ。社員は現在約80名。AI問診ユビーを導入する医療機関は200を超える。

人が体調不良でクリニックや総合病院に行くと、待合室で受診前に問診票をボールペンで記入します。このプロセスにAIを活用してデジタル化すれば、医療機関は電子カルテをさらに有効活用できます。医師はカルテを記入する時間を短縮することで、より多くの患者を診察し、さらに一人ひとりと向き合えるようになります。

患者にとっても多くのメリットがあるんです。人がEコマースやリアルの店舗を上手に利用して、欲しいアイテムをスムースに購入できることを「カスタマージャーニー(Customer Journey)」と呼びますよね。

カスタマージャーニーの発想を医療に

ならば、人がそれぞれの症状に適した医療機関や医療サービスを受けられて、病気をスムースに治すためのプロセス「ペイシェントジャーニー(Patient=患者)」というものもあるべきですよね。

体調を崩した人が、その症状をスマートフォンやタブレットで事前に問診票に記入して、効率良く医療サービスを受けられて、完治を目指していく。AIが問診票の段階である程度の病名や必要な薬剤などを分析してくれれば、人は無駄のないペイシェントジャーニーを経験できるし、医師や病院は業務を改善できるわけです。

インフラが既に整っているシンガポールを最初のテスト市場として、ユビーは少子高齢化で世界一の日本と東南アジアの国々でこのサービスを広げていこうと進めています。問診票の概念すらない国もありますから、ペイシェントジャーニーを作るためにはテクノロジーの力だけでなく、アナログでモノづくり的な部分も必要になってきます。

「ムーミン」のスナフキンの人生

ムーミンのキャラクター「スナフキン」がプリントされたフィンランドの切手(Shutterstock)

──人が健康でいられるためにヨガやメディテーションを勉強された中川さんにとって、ユビーの事業は関連性が高いように思いますね。

ユビーが作るプロダクトや事業は、自分自身が実現させたい夢のように思えてきます。会社の仲間と一緒に新しいサービスを広げるために、市場をゼロから開拓していくことは心から楽しいと思えるし、やり遂げていきたいと思うんです。

今の会社に出会う前まで、「ムーミン」のスナフキンのような人生を送っていたような気がします。個人プレーが多かったのかなと。投資銀行勤務時代は自分自身の役割をひたすら個で果たし、次の人にパスするといったかんじでした。

今はチームプレー。スナフキンのライフスタイルではなくなりました(笑)。

スナフキン:フィンランドの小説家・画家のトーベ・ヤンソンが執筆した「ムーミン」に登場するキャラクター。遊牧民の生活を送り、春と夏の期間だけムーミン谷に滞在する。

世界のライバルと投資銀行で鍛えた筋肉

東京・日本橋にあるユビーのオフィスでインタビューに応える中川さん。

──新型コロナウイルスのパンデミックでオンライン診療や医療におけるAIの活用などが注目されるなか、ユビーに対する期待値はさらに高くなっていくのでは?

世界市場では20~30社くらいの企業が類似したビジネスを展開しています。症状(Symptom)をモバイルアプリを使って入力(Check)して、医師の診断へとつなげる取り組みを「Symptom Checker」と呼びますが、イギリスのバビロン・ヘルス社はその代表的な1社です。

イギリスでは個人がかかりつけ医を登録する制度ができあがっているため、バビロン・ヘルスは政府と連携しながら「Symptom Checker」をイギリス市場で広げてきました。アジアやアフリカ市場にも進出を始めていると聞きます。

ユビーはこれから、アジアを代表する企業として拡大し続けていかなければなりません。海外市場の競争はどんなプロダクトでもとても激しいですね。

投資銀行で鍛えて頂いたやり遂げる“筋力”には自信があると思っています。そのコミットメント力をもっと発揮していきたい。

自分自身の夢とも思えるこのプロダクトと事業をチームで叶えていきたいですね。困っている人を助けるというシンプルな思いが現実のものになってきているという実感があるんです。

インタビュー・構成:佐藤茂
写真:多田圭佑